窓から外を眺める

専業主婦のつぶやき 

植松被告に死刑判決というニュースを見て

昨夜、施設に入所する障害者たちを殺害した植松被告に死刑判決が出たというニュースを見た。

 

植松被告は反省していないと短く伝えられた。

 

この判決で裁判が終わってしまったら、

 

なぜこんな事件が起きたか、新型コロナ感染症の陰で話題にならなくなってしまうだろう。

 

なので、植松被告が控訴するかどうかが気になる。

 

 

この事件で連想するのは、古事記ヒルコの話。

 

イザナギイザナミが国産みをするのだが、

 

女神であるイザナミの方が先に声をかけた国産みで、

 

ヒルコが生まれる。

 

骨のないヒルのような子どもだったので、

 

イザナギイザナミヒルコを神と認めず、ヒルコを葦舟に乗せて

 

海へ流してしまう・・・という話。

 

 

子どもの頃、とてもかわいそうだと思ったのを覚えている。

 

障害があると捨てられてしまうのだから、かわいそう。

 

海に流されたら死ぬだろう。

 

 

元々日本には、障害者を家族と思わないような差別があったのかなあ・・・。

 

極端な話になるけど、

 

古事記という神話を、そのまま真に受けたら、

 

「障害者は不要」という考えになるのかな・・・。

 

 

障害者を殺しはしなくても、世の中から排除しようとする人は

 

少なくないと思う。

 

その証拠に、障害者の入所施設は山の中にある。

 

多くの人が住む街中に入所施設はない。

 

通所施設はある。

 

 

法律にも問題が、最近まで残っていた。

 

障害者に不妊手術をして、子どもを授かるという幸福を奪ってきた。

 

子どもを産ませないということは、子どもを殺すことと同じだと思う。

 

 

障害者差別についてのニュースはたくさんある。

 

古代から障害者差別があり、今もある。

 

差別をなくそうという動きがあって、改善されているとはいえ、

 

障害者は社会に必要ないという考えの人が一定数いるから、

 

植松被告は、「自分は正しいことをした」と主張できるんだろう。

 

 

やまゆり園で起きたことを考えると、他人事ではないと感じる。

 

人に対して、「要」「不要」の線引きをする人は恐ろしい。

 

線引きをする人は、人に「不要」と烙印を押して

 

会社であれば、人を辞めさせたり、

 

仕事をさせなかったり、

 

いじめたりする。

 

野球チームであれば、「不要」な選手を試合に出さない。

 

「不要」な選手は、選手として生かしてもらえない。

 

 

そうだな・・・線引きされたら、仲間として生かしてもらえず、

 

喜びや悲しみなどの感情も共有されない。

 

海に流されたヒルコは、一人ぼっちで死んだだろう。

 

親であるイザナギイザナミは、心を傷めなかっただろう。

 

 

イザナギイザナミヒルコとともに生きていく話にならなかったのは残念だ。

 

イザナミは最後に火の神を産んで死んでしまうという流れにするために、

 

ヒルコは海に流されてしまったのかな。