ずいぶんと前から気になる身内の謎がある。私の母親の姉の旦那さんのこと。
子どもの頃、伯母の家に遊びに行った記憶がある。触ってはいけないものがあると言われ、遊びに行った行ってはいけない家かもと思った記憶がある。
伯母には旦那さんがいたが、子どもはいなかった。旦那さんは家にいて伯母が働いていた。
伯母のことをあまり知らないまま時がたち、おじさんは80代で亡くなった。お通夜や葬式でおじさんが何をしていたか知った。
祭壇に写真ではなく肖像画が飾られていた。遺影ではなく、おじさんの作品が飾られたということ。10代から絵を描いていたそうだ。全く売れなかった。
私は、おじさんは働いていないと思っていたが、おじさん本人は創作活動が仕事だと思っていただろう。生涯絵を描き続けた。
伯母が老人ホームに入るときに、家を処分し、保存していた絵は近所に住む人たちに貰ってもらい、いくつかは公民館に飾ってもらったそうだ。絵は伯母の手元にないそうだ。
伯母の認知症が進み、もう話を聞くことができない。
なので、売れない画家だったおじさんがどういう人だったか分からないまま。
聞いて知ったことは、北九州市若松の出身で作家・火野葦平の幼なじみだということ。
絵について久留米市の美術館に問い合わせたことがあったけど、何も分からず、長年絵を描いていたとしても売買の記録がない人はたくさんいると言われた。記録がなければ何も分からない。
値段がつかないと無価値。なのに70年も絵を描き続けたのはなぜなのか?
これが、残った疑問だ。
絵について調べても分からないので、火野葦平についていくつか本を読んでみた。
で、分かったのは、火野葦平が戦前、「糞尿譚」という短編小説で芥川賞を受賞していること・従軍して「麦と兵隊」など兵士目線の作品を書いてもてはやされたが、前後戦争責任を問われたこと。
火野葦平は、戦後、映画化されるような代表作を書いたが、53歳で自殺している。
売れない画家のおじさんは、芥川賞作家という華々しい火野葦平の周辺人物だったということだ。
おじさんは創作で身を立てる火野葦平に憧れ、自分もそう在りたいと思ったのかもしれない。だから創作し続けたのかも。お金のために働くのは自分らしくないと思ったとかもしれない。
身近に芸能人やプロ選手がいたら、自分もそうなりたいと思うだろう。偉大な功績ある幼なじみがいたら、影響を受けないはずがない。
おじさんは画家という道から降りることができなかった。それはなぜか?謎として残る。
伯母が老人ホームに入る前に、おじさんの作品を資料として買いたいと美術館から話があったと聞いた。売らなかったそうだ。売ればまとまったお金が入るが、税金もかかるから煩わしかったのかと思う。
もし、売っていたら、売買の記録としておじさんの名前は残っただろう。残らなかったのは残念に思う。
おじさんについて調べて、一つがっかりしたことがある。若い頃、著名な画家の内弟子をしていたと聞いていた。
私は久留米市の美術館でその画家の作品を見てみたり、調べたりした。で、その画家は内弟子をとらなかったと知った。
多分、おじさんは伯母に嘘をついていたんだろう。