窓から外を眺める

専業主婦のつぶやき 

いじめや体罰についての記憶

息子のラインでの弱音をきっかけに、いくつかの古い記憶がよみがえった。

 

いじめや体罰についての記憶。

 

昔、いじめ加害者たちについて、彼ら彼女らの長所を生かそうという試みがあった。

 

加害者たちには集団をまとめる力からあると認めれ、文化祭や体育祭、クラスマッチなどの行事でまとめ役を担わせるというものだ。

 

教師から見たら、行事がうまく進行でき成功したように評価される。

 

でも、いじめの被害者から見れば、リーダーに相応しくない者がリーダーになっているという見方になる。

 

滞りなく行事が行われたとしても、一緒に喜べないはず。

 

被害者によっては、絶望を深めることになると思う。

 

 

体罰についての記憶。息子が小4のころ、担任が体罰をする人だった。

 

先生の手形が残るくらいに強くたたくと、息子が怖がっていた。息子も打たれていたのかもしれない。

 

私は体罰を止めて欲しいと学校に電話した。担任は不在だったから管理職に話した。

 

担任を飛ばして話したことが悪かったのか、話が大きくなり、学級懇談会で担任が謝罪した。けれども、その懇談会に仕事で

私は出席できなかった。

 

懇談会で体罰容認派の保護者たちが憤慨し、次の懇談会で私は担任のやり方にケチをつけたことを謝るよう吊し上げられた。

 

その様子を担任は黙って見ていた。

 

体罰容認派が場を仕切ることが多かったためか、私は息子が小学校を卒業するまで孤立した。

 

私に親しくする人はいなかった。

 

攻撃性の強い人や残虐な人に逆らうと、本当に酷い目にあってしまうが、体罰を止めて欲しいと言って良かったと思う。

 

ただ、私は世渡りが下手だった。たいていの人は攻撃を受けないよう被害者にならないよう立ち回っていただろう。

 

被害にあわないようにするために、加害者側に立つ人もいただろう。