窓から外を眺める

専業主婦のつぶやき 

植松被告は反省せず、主張を変えなかった

やまゆり園で入所者たちを殺傷した植松被告の裁判で死刑判決が出たが、

 

植松被告は、障害者を殺しても良いという考えを変えることはなく、

 

反省もしていない。

 

新聞で読んで、心が重くなった。

 

社会の役に立たない者は生きていなくて良いと言われているようで、

 

辛い気持ちになった。

 

生きていてよい人と死ぬべき人という線引きをして殺害した植松被告の非情な考え方が、

 

私にも向いている気がする。

 

私は人とのコミュニケ‐ションが上手ではない。

 

人の醸し出す雰囲気や表情と言葉が一致しないとき、

 

どのように振る舞ったらよいか分からなくなる。

 

事実の一部分を変えて嘘の噂話を広める人を、すごく怖いと思っていて、

 

その人とどのように会話したらいいか分からなくなる。

 

言葉をうまく使って人を操作する人も怖い。

 

 

仕事上で出会った人との関わりで、怖いと思うようになった。

 

人の陰の部分や攻撃性を見て、怖気づいてしまった。

 

 

植松被告は、施設の職員を拘束し、

 

連れ回って、入所者について「この人は話せるか?」と質問し、

 

「話せない」と職員が言ったら殺害に及んだという。

 

むごい質問だし、答えてはならない質問だ。

 

人との会話に怖さを感じる私は、心底怖いと思った。

 

拘束され連れまわされた職員を責められないが、

 

あれは、答えてはならない質問だ。

 

 

答える前に、「なぜ、それを訊くのですか?」と理由を尋ねると、

 

答えられない質問だと分かるだろう。

 

それを訊いてどうするつもりなのかを教えてもらわないと、先の質問に答えられないと

 

きっぱり言えば、植松被告は区別することなく殺害に及んだかもしれない。

 

連れ回した職員をも傷つけたならば、無差別殺人になり、

 

植松被告の「障害者を殺しても良い」という理屈は崩壊する。

 

 

しかしながら、植松被告自身が、大麻使用で逮捕された経験を持っている。

 

大麻で精神に影響が出ていて、精神障害があったとも言える。

 

「障害者を殺しても良い」という理屈は、自分自身にも当てはまるはずだ。

 

なのに、彼は、人と会話ができるというラインを勝手に設定して、

 

「話せない」という入所者を傷つけ殺害した。

 

 

「話せない」ことについて、解釈を変更すれば、

 

様々な人が殺害の対象になってしまう。

 

人に怖さを感じて自由に話せない私に病名をつけたら、

 

精神障害者となり、殺害の対象になるだろう。

 

線引きなんて、どんなにでもできるから恐ろしい。

 

「雑談ができない」というラインを設定し、「雑談恐怖症」などと病名をつけたら、

 

植松被告は、何百万人をも殺害しなくてはならなくなる。

 

会話について悩んでいる人が世の中に大勢いる。

 

話せない人は大勢いる。

 

 

会話が苦手だと意識している私は、「話せる」「話せない」で人を区別できない。

 

自分は「話せない」に属すると自覚しているから・・・。

 

 

植松被告は、会話についての悩みはなかったのだろう。

 

会話については、自分は健全だと自信があったんだろう。

 

死刑判決が出て控訴しないなら、裁判は終わりとなるんだろうが、

 

植松被告が主張を変えず、社会の雰囲気も、

 

誰もが生きやすいものじゃないままだから、

 

第二、第三の植松が登場するかもしれないという不安が私の中で膨らんだ。